aiko「明日の歌」
aikoが発表してきた作品のなかでも11枚目のアルバム「泡のような愛だった」の完成度の高さは、Top3に入るのではないかと思う。
まずアルバム名の「泡のような愛だった」というタイトルが素晴らしい。アルバム内には「君の隣」や「染まる夢」のような恋や愛の始まりを歌う曲も収録されている。しかし、アルバム名を泡のような愛"だった”と過去形にしていることで、このアルバムで歌われている恋や愛は現在ではなく、すべて過去の話であると明示しているのだ。それが効果的に働いている楽曲がアルバム名の元となっているであろう「キスの息」だ。
この曲は愛に溺れていくことの幸福感からくる不安さを歌った歌だが、そのなかに
泡の様に嘘だったと消えたりしないでね
と願うフレーズがある。曲中にもこの愛が終わったことは暗示されているが、この曲を聴いたあとにアルバム名に立ち返ることで、本当にこの愛は消えてしまったのだと、聴いている我々の前に、逃れられない現実として差し出されるのだ。
さて、今回紹介したいのはそんな名アルバムのリード曲である「明日の歌」である。
この曲は別れてしまった恋人のことを歌った楽曲である。
しかも、歌い出しの
暑いって言うかこの部屋には想い出が多すぎる
あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう
からわかるように、この曲の主人公は、「暑い」という天候ひとつからも彼との想い出を思い出してしまい、彼から貰ったもの捨てられずにいるほど、別れた恋人のことを今でも思い続けてしまっている女性である。また、歌い出しのタイミングが、食い気味であるところから、彼女の彼に対する気持ちが未だに前のめりであることが伝わってくる。前のめりであるからこそ、自分のことを見つめられずに、「あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」と自分の気持ちを理解できずにいるのだ。
そこから続く以下の歌詞、
あの時撮った写真も古くなって
このTシャツの襟も柔らかくなって
何もかもが楽しくて切ない昔話みたいになって
今日も「話そうよ」って言ってくる
から、何もかもが楽しくて切ない昔話みたいになるほど、別れてからは時間が経過していることがわかる。時間が経過してもなお、彼のことを思っていることがわかる。
さて、ここでaikoの作詞能力の高さを実感させられるところが、時間の経過を表現する隠喩として、「写真が古くなる」という誰しもが聞いたことのあるフレーズと並列されるのが、「Tシャツの襟が柔らかくなる」という非常にパーソナルで、これまであまり使われてこなかった表現である点だ。
もしかしたら、単独でこの比喩は、時間の経過を表現するには少し弱いかもしれない。しかし、「写真が古くなる」という定型文とも言える比喩と並列させることで、時間の経過の比喩としての効果を補強しているのだ。また、「Tシャツの襟が柔らかくなる」経験は誰もがしているものであり、使い古されている「写真が古くなる」という表現よりも、より一人一人のパーソナルな領域に踏み込むことが出来る。そして、このTシャツにまつわる彼とのエピソードを想像する余地を与えると同時に、昔付き合っていた恋人と話した服についてのエピソードを思い出させるのだ。
そして歌は進み、Bメロに差し掛かる。ここでこの歌の主人公は彼のことが好きでたまらなかった頃の甘酸っぱい想い出を思い出していく。
あなたの唇触ってみたいけど笑ってそしらぬ顔して見ていた
言いたいことが言えなくてもあなたの言葉に頷くだけで嬉しかったの
彼が言葉を放つ、その唇を触りたくてたまらないほど、彼のことを求めていたにも関わらず、それが言えずにただ頷くだけで幸福感に包まれてしまう。ここから、彼女の、彼に対する愛の深さを汲み取ることが出来る。
しかしaikoは、こんなに幸せだった記憶を想起させたあとで、残酷なまでに現実を捉えたフレーズを、私たちに叩きつける。
その唇は今夜もあの子に触れる
そう。別れた彼には新しい恋人がいるのだ。しかもまたよくある話だが、その恋人は、自分の知っている人間だ。
失恋を描いた曲で、別れた相手が今頃幸せに暮らしているだろう、誰かも付き合っているだろう、誰かとキスをしているだろうと想像を巡らせる歌詞は、たびたび登場する。
しかし、この歌詞が秀逸であるところは、幸せな想い出の直後に現実を描写することで、想い出が過去になっているということを、より一層際立たせている点だ。
また、別れた彼が、新しい恋人となにをしているかについて、"幸せ”や"キス”なんて言葉でぼやかすことをaikoはしない。あんなに求めていた彼の唇は、今夜も、あの子に、触れているのだ。つまりは、セックスである。心から許し合った者同士でしか行うことの出来ないセックスを、付き合っていた頃は自分として幸福感を味わっていたであろうセックスを、別れた彼は新しい恋人と日常的に行なっているという現実を、我々に突きつける。
純粋で淡い想い出のあとに、このフレーズを持ってくるコントラスト。そして、想い出に留まっている彼女と、新しい恋に励んでいる彼とのコンラスト。そんな描写をサビ前に持ってくる、aikoの残酷なまでの作詞力には脱帽するほかない。あまりの残酷さに、初めてこのフレーズを聴いた際、一瞬呼吸が止まったほどだ。
そして曲はサビへと続く。
明日が来ないなんて 思った事が無かった
いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね
これはあなたの歌 嫌なあなたの歌
誰かが鼻歌であの雲の向こうまで
笑い飛ばしてくれますように
余談だが、この楽曲のテーマに、「性愛」があるように感じる。先ほど触れたサビ前のフレーズもそうであるし、サビでも初体験を想起させる「いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね」というフレーズが使われているのだ。
そして明日が来ないと初めて思うほど痛くて苦しい彼との別れから、今もまだ抜け出せていないことを改めてここで明示する。そしてそれを「嫌なあなたの歌」として、歌にすることで、自らの力ではどうしようのないこの想いから、誰かに鼻歌で笑い飛ばしてもらうことで、抜け出させてくれることを願っているのだ。
これだけでも、彼を想い続けてしまう彼女の気持ちの大きさに、胸を締め付けられるのだが、このあと繰り返されるサビでの彼女の気持ちの変遷に、より一層心を揺さぶられることになる。
二番のサビ、ラストのサビを連続で読んでいただきたい。
風が吹いた春が 胸をついた夏が
行ったり来たりして痛くて苦しくなるんだよ
これはあなたの歌 嫌なあなたの歌
いつか遠い遠いあたしも知らないあたしを
もう一度包んでくれますように
明日が来ないなんて 思った事が無かった
いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね
これはあなたの歌 好きなあなたの歌
誰かが鼻歌であの雲の向こうまで
笑い飛ばしてくれますように
笑い飛ばしてくれますように
二番のサビは、まず彼との想い出が春〜夏の短い間に起きたものであることが明示されている。そして、彼女の感情の揺らぎが表現されているのが、最後の二行である。一番では誰かに笑い飛ばしてもらうことを願っていた彼女が、二番では、遠い未来に彼とまた出会い、恋人になれることを願ってしまっているのだ。
そして極め付けは、ラストのサビである。通常、J-POPでありがちな手法として、ラストのサビは一番のサビと同じ、その上で最後のフレーズを繰り返すというものがある。失恋ソングでこの手法を使うと、円環として表現され、同じ地点でぐるぐるとずっと別れた恋人のことを思っている姿が想起され、切なさに襲われるのだが、aikoはそこにひとつ変化を加えている。
一番、二番ともに「これはあなたの歌 嫌なあなたの歌」と歌っていたにも関わらず、ラストのサビでは「これはあなたの歌 好きなあなたの歌」と歌っている。この歌の主人公は、ずっと過去だと、想い出だと、歌っていた彼のことがまだ好きだということをここで初めてはっきりと自覚するのだ。
またそれは、この曲の歌い出しで提示していた「あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」という疑問に対する回答でもある。
別れた恋人との想い出が過去だとどれだけ思っても、別れた恋人が新しい恋人と愛を勤しんでいるとどれだけ頭で理解しても、自分ではどうしようもないほど、好きなものは好きなのだという当たり前のようで忘れがちな真理を、この曲は我々に教えてくれる。
そして、日本中に無数に存在するこのような悩みを持った人たちを、多いに苦しめ、少し救ってくれるのだ。