結局、ポップカルチャー。

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映画『花束みたいな恋をした』考察、ふたりの5年とこれから

以下、ネタバレを含みます。

 

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東京ラブストーリー』、『最高の離婚』、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』など、数々の名作を生み出してきた坂元裕二が脚本を手がけ、『カルテット』でもタッグを組んだ土井裕泰が監督を担当した『花束みたいな恋をした』。稀代のヒットメーカー・坂元裕二が手がける初のオリジナル脚本映画である今作は、2019年に制作が発表されて以来ファンからの数多くの期待が寄せられてきた。

 

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興行収入ランキング初登場1位を獲得するなど大ヒットを記録しており、名実ともに2020年代の恋愛映画を代表する作品となるであろう今作。その魅力について、ある問いを通して考えていきたい。

 

物語は2020年のカフェでLとRで分け合って音楽を聴いているカップルを、たまたまそのカフェに居合わせた山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)がそれぞれ現在交際している恋人と共に見つめている場面で始まる。一見微笑ましいやりとりを繰り広げる彼らを見つめながら、麦と絹はそれぞれの恋人に対してイヤホンはLとRの両方で聴くことの重要性を説いていく。

 

麦「音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムだけ聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ」

 

絹「同じ曲聴いてるつもりだけど、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いてるの」

 

冒頭の場面だけで、麦と絹の物事の考え方や性格などが完全に一致していることがわかる。そして2020年に付き合っている恋人にはそれが全くと言っていいほど響いていない。ここからある問いが立ち上がる。

 

「なぜ麦と絹は別れ、2020年に別の恋人と付き合っているのか」、この問いについて考えていきたい。そのために、まずは麦と絹がどういった人物として描かれているのかについて確認する。

 

山音麦について 

山音麦はイラストレーターとして働くことを夢見ていて、その後同棲を機に一イラスト千円で描くという形で働き始める。しかし、その後受注金額は値崩れを起こし最終的には物流関係の企業に就職。絵を描くことや、ふたりの共通言語であるカルチャーから離れていく。

 

彼を表現する象徴的な要素として、ガスタンクが好きという点がある。なぜ彼は、日本各地に点在するガスタンクを撮影し、『ロードオブザリング 王の帰還』と同じ長さの大長編映画を自主制作してしまうほど、その存在に惹かれていたのか。

それはガスという危険物から、たとえ小型の飛行機がぶつかってきても壊れないほどの強度で身を挺して我々を守ってくれる、その絶対的な安心感に惹かれていたのではないだろうか。彼は、危険から身を守る絶対性に惹かれ、憧れていたのである。

だからこそ、絹が圧迫面接や実家のプレッシャーに苦しんでいた際にはその危険から絹を守るために同棲を提案したし、その同棲の持続が危ぶまれたタイミングで夢を諦めて就職したのである。彼が浮気を一度もしなかったのも、浮気が守るべき生活の危険分子だったからだろう。

なぜ彼が、あれほど好きだったはずのカルチャーから離れていくことも厭わずに仕事に没頭できたのかも、なぜ自己犠牲的な発想に囚われるようになったのかも、ふたりのなかでのガスタンク的な役割を担おうとしていたからだと言える。

 

八谷絹について

一方で、八谷絹は同棲を始めたのちに、アイスクリーム屋でのバイト、医療事務を経て、イベント会社へと就職していく。

 

彼女を表現する象徴的な要素に、ミイラが好きという点がある。なぜ彼女は上野博物館でのミイラ展に内心歓喜し、咽び泣くほどミイラに惹かれるのか。その理由に、彼女が「おわりの気配」に人一倍敏感である、という点が挙げられる。

彼女が熱心に読んでいたとされるブログ『恋愛生存率』の筆者・めいさんについて、このように語られている。

 

絹(M)「この人はわたしの話しかけてくれている、そう思える存在だった。彼女の書くテーマはいつも同じだった。はじまりはおわりのはじまり」

 

付き合いたてで行った静岡旅行の映像とともに、このモノローグは語られる。幸せの絶頂であるはずのときでさえも、この恋愛にも「おわり」があるということを頭のどこかで理解し、静かに恐れている。常に「おわりの気配」を感じている絹だからこそ、カラオケでは<“クロノスタシス”って知ってる? / 知らないときみが言う / 時計の針が止まって見える現象のことだよ>(きのこ帝国“クロノスタシス”)と歌ったし、花の名前を麦に聞かれた時もその名を伝えなかったし、電車のなかで「絶対に別れないって自信ないの?」と聞かれた際も答えを濁していたのである。

 

そんな冷静さを兼ね備えた絹だからこそ、死という生きとし生けるものに平等に訪れるはずの「おわり」を超越すべく、「永遠の命」を手に入れるために作られたミイラに惹かれるのだ。

 

ふたりはなぜ別れたのか

そんなふたりは、終電を逃した明大前で出会い、同じく終電を逃した男女ともに行ったカフェで押井守を見かけたことがきっかけで距離が縮まり、そして恋に落ちる。麦の本棚の並びを見て「ほぼうちの本棚じゃん」と絹がこぼしたほど、出会ったときにお互い白のジャックパーセルを履いていたほど、ミイラ展に行った際に示し合わせていたのかと疑いたくなるほど似た服装をしていたほど、彼らの趣味嗜好は通じ合っていた。その趣味嗜好がアイデンティティを形成する大きな要素であると自認している、というところも含めて似通っていたふたりはなぜ別れることになったのか。

 

思えば、ふたりの恋愛は「分かち合う」ことで成り立っていた。LとRでイヤホンを分け合ってはAwesome City Clubを聴き、『宝石の国』をふたりで寝転びながら読み、焼きそばパンを分け合って食べる。「おわり」に敏感なはずの絹が、付き合ってすぐの同棲に抵抗を覚える描写がなかったことも、ふたりのなかで「分かち合う」ことが当たり前になっていたからこそ、生活を分かち合うことにも抵抗がなかったと言える。

 

そんなふたりの別れのきっかけは、社会人として働き始めたことがターニングポイントとして描かれている。社会からその身を、カルチャーを分かち合う生活を守るために同棲を始めたのだが、同棲を続けるために社会に出ることになった。その因果が逆転したことで、麦はカルチャーから離れ、カルチャーを共有する喜びを重要視している絹とのすれ違いが生じるようになる。そして気がつけばLとRを分け合ってひとつの音楽を聴こうとしていたふたりは、LとRその両極端まで心が離れていってしまっていた。

 

そして、会話も喧嘩もなくなった2019年、友人の結婚式の帰り、交際を始めたファミレスでふたりは別れ話を始める。しかし、麦はそれを途中で「絹ちゃん、俺、別れたくない」と遮り、結婚しようと口にするのだ(蛇足だが、長台詞は坂元裕二の真骨頂のひとつだと思う。以下の場面も『最高の離婚』第9話屈指の名場面である「キャンプ、 行けなくてごめんなさい」で締められる光生の長台詞を想起させられた)。

 

麦「ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だよ。そんなの求めてたら幸せになれない。喧嘩ばっかりしてたのは恋愛感情が邪魔してたからでしょ。今家族になったら、俺と絹ちゃん、上手くいくと思う。子供作ってさ、パパって呼んで。ママって呼んで。俺、想像出来るもん。三人とか四人で手を繋いで多摩川歩こうよ。ベビーカー押して高島屋行こうよ。ワンボックス買って、キャンプ行って、ディズニーランド行って。時間かけてさ、長い時間一緒に生きて。あの二人も色々あったけど、今は仲のいい夫婦になったね。なんか空気みたいな存在になったねって。そういう二人になろ。結婚しよ。幸せになろ」

 

「恋の死」を別れではなく、結婚という形で受け入れてふたりで生活していくことを提案した麦に対して、絹も一度は「そうかもしれない」と受け入れようとする。

 

しかし、そこで麦と絹が出会った頃の年齢と思わしき男女、水埜亘(細田佳央太)と羽田凛(清原果耶)がファミレスにやってくる。21歳の麦と絹が座った座席に座ったふたりは、羊文学のライブ帰りに偶然出会ったようで、長谷川白紙や崎山蒼志、BAYCAMPの話をして、お互いが持っている文庫本を見せ合っている。麦と絹にはない、輝きや尊さをふたりは持っていた。そしてその輝きは、かつてのふたりも持ち、そして失っていったものだった。

あの頃には戻れない。そして「分かち合う」恋愛で結ばれ、分かち合えなくなった今のふたりにこの先はない。枯れた花束は捨てるしかない。そのことをまざまざと見せつけられたふたりは、別れを決意するのだ。

 

なぜふたりは新たな恋愛ができているのか

ここまでなぜふたりが別れることになったのかについて確認した。次に、なぜ5年もの月日を注いだ大恋愛が終わった翌年に、新たな恋愛ができているのか。そのことについて考えたい。

 

確かに2020年、彼らは新たな恋愛をしている。だが、それぞれの恋人には冒頭のイヤホンの話は全くと言っていいほど響かず、理解されない。それでも恋人同士になれた理由について、彼らは自分の口で冒頭に語っているのである。

 

麦「スマホはひとり一個ずつ持ってるじゃない」

絹「一個ずつ付けて、同時に再生ボタン押せばいい」

知輝(絹の現在の恋人)「ひとつのものを二人で分けるからいいんじゃないの?」

絹「分けちゃダメなんだって、恋愛は」

麦「一個ずつあるの。あの子たちそれをわかってないな。教えてあげようかな」

 

「分かち合う」恋愛を通して、ふたりは「恋愛は一つずつ持つもので、分けるものではない」と思うようになったのだ。その結果、カルチャーや思想を共有できなくても、付き合っていけるようになったのである。その証拠に、ふたりはイヤホンの話が理解されなくても気にするそぶりは見せないし、生活を分かち合う同棲ではなく一人暮らしをしているのだ(とはいえ、ふたりが2020年に付き合っている恋人がひどく退屈そうな人に映るところは、この映画の意地悪な部分であり、良心であるとも言える)。

 

だからといって、ふたりが過ごした五年が間違いだったわけではない。愛し愛されて生きた輝かしい日々はGoogleMapに映り込んだように確かにそこにあって、たとえGoogleMapが更新されてふたりがストリートビューからいなくなっても、ふたりのなかに、そして我々の心のなかに生き続けるのだ。

 

P.S.

映画館で鑑賞した直後に唯一ひっかかっていた点に、「ふたり、天竺鼠の単独行こうとしてた割にその後お笑い好きな描写なくない?」という疑問があったのだが、ふたりが喧嘩していた際に麦が怒り混じりに「じゃあ結婚しようよ」と口にした場面で

 

絹「それってプロポーズ?」

麦「……」

絹「今、プロポーズしてくれたの?」

麦「……」

絹「思ってたのと違ってたな」

 

というやりとりがある。この「思ってたのと違ってたな」は、『M-1グランプリ2008』で敗者復活から上がってきたオードリーに敗れた笑い飯・西田が残した名言「思てたんと違う!」を想起させられる。このシリアスな場面でも『M-1』を下敷きにした言葉が出てくるのだとしたら、やはりふたりはお笑いのことも愛していたのだと思う。

Mom『スカート』

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才能あるミュージシャンというものは、本当にとめどなく現れる。それは聴いている我々にとってすれば幸せなことであるし、ともすればミュージシャンにとっては残酷な現実である。

今回紹介するMom(マム)もまごう事なき才能の持ち主だ。彼について僕が知り得る情報は、Twitterのプロフィールに書いてある「21歳、ラッパーでもバンドマンでもないです。」という一文だけである。でもそれだけで十分だ。彼のドロップする音楽はこんなにも素晴らしいのだから。

 

今回紹介する楽曲「スカート」は、2018年5月19日時点で、一番新しく公開された楽曲だ。もちろんこれまで公開されてきた「いたいけな惑星」や「東京」も素晴らしいのだが、「スカート」はこれから彼の代表曲になっていくと確信してしまうほどの出来栄えとなっている。

 

まずトラックがいい。シンプルなスネアのループを中心に、音数は少ないにもかかわらず、スーパーマリオのコインを取る音を加える遊び心が聴いているこちらをニヤつかせる。

そして彼の肩の力の入っていない歌声で歌われるhookが、トラックとピシャリと合っていて、思春期を超えた青年特有の静かな衝動を想起させる。

いつも見たいのは心の中

今日は余所行きの風にまかせ

隠せぬ気持ちこの胸のときめき

君のスカート

 

彼の選ぶ言葉は日常に根ざしたものでありながら、その内容は非常に概念的で抽象的であったり、叙情的であったりする。そんな彼の作詞スキルの高さが表れているフレーズが以下である。

 

きっとこの瞬間両手を広げ

無限を全身で感じたら

享楽だったり芸術に

足を取られることもないはずさ

誰でもいいから追い越して

不機嫌な雲を追い越して

もしもしいまどこ

これからもどるよ

フラワーショップで待っててよ

 

まず「無限」という抽象的でスケールの大きな事象を取り上げ、「享楽」や「芸術」という概念に言及する。このときの視点はマクロだ。言ってしまえば宇宙的である。そこから「不機嫌な雲」と、地球規模まで視点を小さくしていく。そして最後に「もしもし いまどこ これからもどるよ フラワーショップで待っててよ」と、一個人である誰かへと呼びかけるミクロな視点まで変移していくのだ。このマクロからミクロへの視点の動きの鮮やかさには脱帽するほかない。

 

作詞面のスキルの高さ、またアウトロのカッティングギターやコインの獲得音までこだわる作曲面の緻密さを鑑みると、彼の才能はどんどん世の中に発見されていくべきだと感じる。

 

「That Girl」でMom自身も

君のプレイリストに僕を加えてよ

そしたらもっと楽しい日になるよ

君のプレイリストに僕を加えてよ

I’m Just Kidding  

と歌っているように、彼の曲がより多くの人のプレイリストに加わる日が1日でも早く来ることを切に願う。

 

またYou Tube上で公開されている彼のMVはどれも過去の映像作品をサンプリングしたものであり、映像としてもとても面白く、そしていつまで公開できるか怪しいものばかりであるため、是非消されてしまう前に一度見て欲しい。

もちろん「スカート」も、二次元、三次元問わず様々なスカートを履いた女性が登場する最高のMVになっている。

 

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小沢健二『シナモン(都市と家庭)』

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ゆっくりゆっくり書いていたとある記事がなぜか下書きから消失して意気消沈しているため、気分直しに短めにひとつ記事を書こうと思う。

そして今日は10月31日、そうハロウィンだ。と、いうことで今日はハロウィンソングの金字塔といっても過言ではない小沢健二の『シナモン(都市と家庭)』を紹介したい。

この楽曲は2017年(つまり今年だ)に小沢健二SEKAI NO OWARI名義でリリースされた『フクロウの声が聞こえる』のカップリングに収録されている。ベースラインのうねるブラックミュージック的要素が盛り込まれたダンサブルなアレンジが特徴の楽曲だが、着目したいのはやはり歌詞である。

骸骨が街に帰ってくると かぼちゃの中に灯るロウソク

水彩の筆のオレンジで 十月の雑踏に色を塗る

と一番のAメロから、「骸骨」「かぼちゃ」「十月の雑踏」というワードが次々と飛び出すように、この曲のテーマはハロウィンをテーマに歌われている。ハロウィンという文化自体、日本で根付いたのはここ最近であり、また若者が仮装して盛り上がるという資本主義的な普及のしかたをしたこともあいまって、ハロウィンソングというものはあまり多く見受けられない。実際、私のiPodのなかを探してもハロウィンのことが曲のなかで取り上げられているのは、きゃりーぱみゅぱみゅの『Crazy Party Night ~ぱんぷきんの逆襲~』と渡會将士の『月は踊るように満ち欠ける』ぐらいだ。しかしニューヨークを拠点に世界各地で生活を送ってきた小沢健二がハロウィンのことを歌うことは、自然であると言える。

 

そしてシナモンの香りで

僕はスーパーヒーローに変身する

この街のどこかで

君も今年の衣装に変身するよ

フッフッフ

歌のなかで描かれているハロウィンが現代の日本のような若者中心の文化ではなく、大人も子供も関係なく、家庭、つまりは家族で楽しむものとして描かれていることや、日本ではあまりハロウィンと結びつかない「シナモンの香り」でスーパーヒーローに変身するところも、どこか異国的な匂いがする。

 

またこの楽曲で私が一番反応してしまうフレーズが以下だ。

外国時間を計算しながら

あなたにメッセージ送ってみるよ

友愛の修辞法は難しい

恋文よりも高等で

このフレーズからなにか連想されないだろうか。そう、彼の代表曲である『ぼくらが旅に出る理由』のこのフレーズである。

 そして君は摩天楼で 僕にあてハガキを書いた

こんなに遠く離れていると 愛はまた深まってくの と

 

それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた

とても素敵な長い手紙さ 何を書いたかはナイショなのさ

1994年に遠くを旅する恋人にとても素敵な長い手紙を書いていた小沢健二が、2017年現在は友人に時差を計算しながらメッセージを送っているのだ!

『流動体について』で日本のミュージックシーンにカムバックした小沢健二が、全盛期にしがみついた時代遅れのおじさんとも揶揄されていたのは事実である(私は真っ向からそれに反対したいが)。しかし、彼は“時代遅れ”なんかではなく、外国の友人にメッセージで連絡を取り合うような、今の文化にしっかり対応した今を生きるアーティストであることを、先ほどのフレーズが証明していると言える。

そう遠くない未来にリリースされるであろうアルバムで、小沢健二が作り出す現在の球体の奏でる音楽を聴くことが今から楽しみでたまらない。

aiko「明日の歌」

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aikoが発表してきた作品のなかでも11枚目のアルバム「泡のような愛だった」の完成度の高さは、Top3に入るのではないかと思う。

まずアルバム名の「泡のような愛だった」というタイトルが素晴らしい。アルバム内には「君の隣」や「染まる夢」のような恋や愛の始まりを歌う曲も収録されている。しかし、アルバム名を泡のような愛"だった”と過去形にしていることで、このアルバムで歌われている恋や愛は現在ではなく、すべて過去の話であると明示しているのだ。それが効果的に働いている楽曲がアルバム名の元となっているであろう「キスの息」だ。

この曲は愛に溺れていくことの幸福感からくる不安さを歌った歌だが、そのなかに

泡の様に嘘だったと消えたりしないでね 

と願うフレーズがある。曲中にもこの愛が終わったことは暗示されているが、この曲を聴いたあとにアルバム名に立ち返ることで、本当にこの愛は消えてしまったのだと、聴いている我々の前に、逃れられない現実として差し出されるのだ。

 

さて、今回紹介したいのはそんな名アルバムのリード曲である「明日の歌」である。

この曲は別れてしまった恋人のことを歌った楽曲である。

しかも、歌い出しの

暑いって言うかこの部屋には想い出が多すぎる

あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう

 からわかるように、この曲の主人公は、「暑い」という天候ひとつからも彼との想い出を思い出してしまい、彼から貰ったもの捨てられずにいるほど、別れた恋人のことを今でも思い続けてしまっている女性である。また、歌い出しのタイミングが、食い気味であるところから、彼女の彼に対する気持ちが未だに前のめりであることが伝わってくる。前のめりであるからこそ、自分のことを見つめられずに、「あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」と自分の気持ちを理解できずにいるのだ。

 

そこから続く以下の歌詞、

あの時撮った写真も古くなって

このTシャツの襟も柔らかくなって

何もかもが楽しくて切ない昔話みたいになって

今日も「話そうよ」って言ってくる

 から、何もかもが楽しくて切ない昔話みたいになるほど、別れてからは時間が経過していることがわかる。時間が経過してもなお、彼のことを思っていることがわかる。

さて、ここでaikoの作詞能力の高さを実感させられるところが、時間の経過を表現する隠喩として、「写真が古くなる」という誰しもが聞いたことのあるフレーズと並列されるのが、「Tシャツの襟が柔らかくなる」という非常にパーソナルで、これまであまり使われてこなかった表現である点だ。

もしかしたら、単独でこの比喩は、時間の経過を表現するには少し弱いかもしれない。しかし、「写真が古くなる」という定型文とも言える比喩と並列させることで、時間の経過の比喩としての効果を補強しているのだ。また、「Tシャツの襟が柔らかくなる」経験は誰もがしているものであり、使い古されている「写真が古くなる」という表現よりも、より一人一人のパーソナルな領域に踏み込むことが出来る。そして、このTシャツにまつわる彼とのエピソードを想像する余地を与えると同時に、昔付き合っていた恋人と話した服についてのエピソードを思い出させるのだ。

 

そして歌は進み、Bメロに差し掛かる。ここでこの歌の主人公は彼のことが好きでたまらなかった頃の甘酸っぱい想い出を思い出していく。

あなたの唇触ってみたいけど笑ってそしらぬ顔して見ていた

言いたいことが言えなくてもあなたの言葉に頷くだけで嬉しかったの

彼が言葉を放つ、その唇を触りたくてたまらないほど、彼のことを求めていたにも関わらず、それが言えずにただ頷くだけで幸福感に包まれてしまう。ここから、彼女の、彼に対する愛の深さを汲み取ることが出来る。

しかしaikoは、こんなに幸せだった記憶を想起させたあとで、残酷なまでに現実を捉えたフレーズを、私たちに叩きつける。

その唇は今夜もあの子に触れる

そう。別れた彼には新しい恋人がいるのだ。しかもまたよくある話だが、その恋人は、自分の知っている人間だ。

失恋を描いた曲で、別れた相手が今頃幸せに暮らしているだろう、誰かも付き合っているだろう、誰かとキスをしているだろうと想像を巡らせる歌詞は、たびたび登場する。

しかし、この歌詞が秀逸であるところは、幸せな想い出の直後に現実を描写することで、想い出が過去になっているということを、より一層際立たせている点だ。

また、別れた彼が、新しい恋人となにをしているかについて、"幸せ”や"キス”なんて言葉でぼやかすことをaikoはしない。あんなに求めていた彼の唇は、今夜も、あの子に、触れているのだ。つまりは、セックスである。心から許し合った者同士でしか行うことの出来ないセックスを、付き合っていた頃は自分として幸福感を味わっていたであろうセックスを、別れた彼は新しい恋人と日常的に行なっているという現実を、我々に突きつける。

純粋で淡い想い出のあとに、このフレーズを持ってくるコントラスト。そして、想い出に留まっている彼女と、新しい恋に励んでいる彼とのコンラスト。そんな描写をサビ前に持ってくる、aikoの残酷なまでの作詞力には脱帽するほかない。あまりの残酷さに、初めてこのフレーズを聴いた際、一瞬呼吸が止まったほどだ。

 

そして曲はサビへと続く。

明日が来ないなんて 思った事が無かった

いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね

これはあなたの歌 嫌なあなたの歌

誰かが鼻歌であの雲の向こうまで

笑い飛ばしてくれますように

余談だが、この楽曲のテーマに、「性愛」があるように感じる。先ほど触れたサビ前のフレーズもそうであるし、サビでも初体験を想起させる「いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね」というフレーズが使われているのだ。

そして明日が来ないと初めて思うほど痛くて苦しい彼との別れから、今もまだ抜け出せていないことを改めてここで明示する。そしてそれを「嫌なあなたの歌」として、歌にすることで、自らの力ではどうしようのないこの想いから、誰かに鼻歌で笑い飛ばしてもらうことで、抜け出させてくれることを願っているのだ。

これだけでも、彼を想い続けてしまう彼女の気持ちの大きさに、胸を締め付けられるのだが、このあと繰り返されるサビでの彼女の気持ちの変遷に、より一層心を揺さぶられることになる。

二番のサビ、ラストのサビを連続で読んでいただきたい。

風が吹いた春が 胸をついた夏が

行ったり来たりして痛くて苦しくなるんだよ

これはあなたの歌 嫌なあなたの歌

いつか遠い遠いあたしも知らないあたしを

もう一度包んでくれますように

 

明日が来ないなんて 思った事が無かった

いつでも初めては痛くて苦しくなるんだね

これはあなたの歌 好きなあなたの歌

誰かが鼻歌であの雲の向こうまで

笑い飛ばしてくれますように

笑い飛ばしてくれますように

二番のサビは、まず彼との想い出が春〜夏の短い間に起きたものであることが明示されている。そして、彼女の感情の揺らぎが表現されているのが、最後の二行である。一番では誰かに笑い飛ばしてもらうことを願っていた彼女が、二番では、遠い未来に彼とまた出会い、恋人になれることを願ってしまっているのだ。 

そして極め付けは、ラストのサビである。通常、J-POPでありがちな手法として、ラストのサビは一番のサビと同じ、その上で最後のフレーズを繰り返すというものがある。失恋ソングでこの手法を使うと、円環として表現され、同じ地点でぐるぐるとずっと別れた恋人のことを思っている姿が想起され、切なさに襲われるのだが、aikoはそこにひとつ変化を加えている。

一番、二番ともに「これはあなたの歌 嫌なあなたの歌」と歌っていたにも関わらず、ラストのサビでは「これはあなたの歌 好きなあなたの歌」と歌っている。この歌の主人公は、ずっと過去だと、想い出だと、歌っていた彼のことがまだ好きだということをここで初めてはっきりと自覚するのだ。

またそれは、この曲の歌い出しで提示していた「あなたに貰ったものをどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」という疑問に対する回答でもある。

 

別れた恋人との想い出が過去だとどれだけ思っても、別れた恋人が新しい恋人と愛を勤しんでいるとどれだけ頭で理解しても、自分ではどうしようもないほど、好きなものは好きなのだという当たり前のようで忘れがちな真理を、この曲は我々に教えてくれる。

そして、日本中に無数に存在するこのような悩みを持った人たちを、多いに苦しめ、少し救ってくれるのだ。

徳利『徳利からの手紙』

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このブログの一番最初のエントリーの書き出しの一文目から誤字があったことに気づき、膝から崩れ落ちた。

ということで、今回は「膝から崩れ落ちた」というパンチラインを残した空前絶後の名曲『徳利からの手紙』を紹介したい。

 

最近では、tofubeatsYouTubeに公開していた『HARD-OFF BEATS』の次回予告で声の出演を担当したり、福岡を拠点にしていながらなぜか清澄白河の非公式ソングを発表し、そのMV監修を「仕込みiPhone」が話題となった森翔太が務めたりと精力的に活動をしているため、“徳利”という人物の存在を認識していなくとも、「ドンミスィッ!」*1というキラーフレーズに聞き覚えがあったりサムネイル上のluteのロゴ越しの徳利を見覚えのある人は少なくないはずだ。

そして徳利の存在については、10代女子を中心に絶大的な人気を誇るラジオ番組『星野源オールナイトニッポン』にtofubeatsがゲスト出演した際にも、『HARD-OFF BEATS』の話題を通して触れられている。

今やお茶の間のスターとなった星野源の番組で、その存在について触れられるほどの男である徳利であるが、その名を全国に轟かせた楽曲こそが、今回紹介する『徳利からの手紙』なのである。

 

高らかと今回紹介すると宣言した直後にこんなこと書くべきではないのだが、この楽曲について説明するのは、本当に難しい。

まず、どうジャンル分けするかから頭を悩ませることになる。一般的にジャンルとしてはラップとなってはいるが、トラックこそKZA『Routine』を使用してはいるものの、そこに乗っかる徳利のラップは韻を踏んでいるわけでもなく、メロディがあるわけでもない。ましてやVerseやhookがあるわけもない。ただ徳利自身の過去の冴えない思い出について淡々と読み上げていくだけなのである。(SoundCloud上のハッシュタグも「#Memory」になっている。)言うなれば、自分の思い出話を音楽に乗せて話しているだけのポエトリーリーディングだ。

しかもその思い出は若さゆえの馬鹿らしさと少しの狂気に包まれた、聞くと思わず笑ってしまうようなエピソードばかりなのである。

それは例えば、小学生のときに好きだった女の子にラブレターを貰って嬉しかったけど、あなたのことは二番目に好きですと書いてあった記憶とか、中学生のときに不意に陰毛を燃やしてみたくなってティッシュの上で燃やしたらすごい勢いで燃え上がって窓から捨てた記憶、サッカーのクラスマッチでキーパーをするはずだったデブがズル休みをしたために徳利がキーパーをする羽目になり、相手のシュートをスライディングで止めようとしたら躓いてゴールが決まって、徳利は複雑骨折してそのまま転校したといった記憶である。

 だが、そんな馬鹿らしいエピソードを聴いているうちに胸の奥底から熱いものが沸々と込み上げてくる。

その要因のひとつには、その記憶たちには青春時代特有の切なさや苦しさがこれでもかと詰め込まれている点がある。徳利の話すエピソードのひとつひとつは徳利特有のものであり、聴いている人には到底体験してきていないものばかりだ。しかし、それらのエピソードを通して、徳利が味わった切なさや苦しさといった感情は、誰しもが学生時代に味わったものであり、この楽曲を通して徳利の思い出を追体験することにより、徳利の思い出の近似値となるような自らの記憶を呼び覚ますのである。 

中学受験でハゲるくらい追い詰められてた時当時好きだったアイドルから応援の手紙をもらった体で大丈夫きっと受かるよ!って自分で書いた手紙お守りに入れて持っていた小学生時代や、クラスの出し物でTimingのダンスを踊ってから廊下ですれ違うたびに校長に「ハッスルボーイ、ハッスルボーイ」と呼ばれていた中学時代のエピソードも秀逸だが、特に胸を打つのが“最初で最後の彼女”*2との思い出の数々である。

6分30秒ある楽曲の中で語られる思い出はほぼ全て切なさや苦しさを伴うものなのだが、そのなかで“最初で最後の彼女”との思い出は唯一幸せな思い出として語られる。

“最初で最後の彼女”は学校で1・2を争う可愛い子だったらしく、クリスマスにエクソシストを観に行って、帰りに初めて手を繋いで幸せだったと徳利は曲中で語る。どんなエピソードにも切なさを忍ばせる徳利が手放しで「幸せだった」と語るところに、この時期の幸福感、無敵感が伝わってくる。また下校中に初めてキスをしそうになったときには、彼女に「今私風邪引いてるから無理だよ」と拒まれたところで、徳利は「あ!今日ドラえもんスペシャルの日や!」と言って走って帰るいじらしさを見せる。彼女も彼女で初詣に行った際にMA-1を着て登場するなど、見た目だけではないなんとも言えない可愛さを見せる。まるで少年漫画に出てくるような、淡い青春の思い出である。

しかしそんな彼女の思い出も幸せなままでは終わらない。

別々の高校に進学した二人は、徳利はボクシング部、彼女は空手部にそれぞれ入り、一緒にインターハイを目指そうと誓い合う。しかし次第に会うことが少なくなり、別れてしまうのだ。その後、徳利はデビュー戦で審判に止められるほどの鼻血を出し、一試合で引退する。部活引退後は、ろくに勉強もせず金髪にしたり夜遅くまで街をぶらついたりして暮らしていた徳利だが、ある日ふと元彼女の高校の前を通りかかるとでかでかと貼り出された看板に彼女の名前とインターハイ出場の文字が書かれており、それを見た瞬間徳利は膝から崩れ落ちたのである。このエピソードから、この曲のパンチラインのひとつ、「膝から崩れ落ちた」の誕生する。*3

早稲田大学*4に進学したあとも、バンザイを売りにしたサークル*5に入りながらもその気持ち悪くて一度もバンザイせずに辞めたり、レゲエサークルで「ガンジャガンジャ」言ってた先輩がちゃっかり大企業に就職して「クソが」と思ったり、のちにミスなんちゃらのグランプリに輝く女の子と大学への愛校心の塊みたいなやつらが多いことへのディスで盛り上がり「ん!これはもしかするといけるのでは。」と思ったりしながら、徐々に徳利の語る記憶は現在に近づいていく。そして最後に、無料の範囲でチャットレディを眺めることを日課にしていた徳利が、行きつけのサイトで高校時代最初に好きになった女の子を見つけたエピソードについて語り、徳利の記憶語りは終わる。

 

しかし、もしここでただエピソードを語っただけでこの曲が終わっていたとしたら、この曲がこんなに評価され、tofubeatsPUNPEE村上淳の耳に届くこともなかったかもしれない。

それほどの威力を持ったパンチラインを徳利は最後にさらっと発する。

生きてると、これ漫画だなって思う瞬間がある。

これまでのエピソードの数々を通して徳利が辿りついた境地が、このパンチラインだ。

この楽曲に出会うことの出来た人たちは、この先理不尽や不条理な局面に直面した際、これ漫画だなと思うことで、その状況は変わらずとも、少し気持ちが楽になるはずだ。

また不思議なことに、この楽曲が話題となり瞬く間に数々の人々に耳に届き、ラジオにライブ、最終的にはDMM英会話のCMにまで出演することになった徳利の未来を自ら予言していたかのようなパンチラインとなっている。

これからの徳利の人生にも、これ漫画だなと思う瞬間が多く訪れ、それを楽曲として私たちの耳に届けてくれることを切に願う。

 

※いつもは楽曲のリンクをひとつだけ貼っているのだけれど、今やENJOY MUSIC CLUBのMとしても大活躍している松本壮史が撮影編集を務めた『徳利からの手紙-THE MOVIE-』も、当時の異常なまでの盛り上がりがわかり、とても良いので併せて貼っておきます。

 

soundcloud.com

 

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*1:Don't Miss Itのこと

*2:なお、その後の楽曲からその後も彼女は出来ていることがわかる

*3:その後高校時代に映画のオーディションを受けたら受かって、レッスンで地味な高校生と仲良くなるも、受験勉強で徳利はレッスンからフェードアウトしてしまい、その後新聞でその映画の主人公がその地味な高校生になっていたことを知った際も膝から崩れ落ちる。

*4:曲中では“大学”としか言及されていないが、徳利からの手紙-THE MOVIE-で早稲田大学での写真を確認することができる。

*5:早稲田大学バンザイ同盟のこと

ザ・ぷー『ナニコレ』

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まずはじめに伝えておきたいのは、私は歌詞にこめられた世界や哲学、物語についてあれこれ考えることが好きだと言うことだ。そしてそれを踏まえたうえで、今回紹介するザ・プーチンズのナニコレの歌い出しの一節を紹介したい。

 

3,2,1 Fight!

 

ぐうぐうぴろぴろ チャイナチャイナ

ふわふわわたあめ サドンデスサドンデス

投げ銭釣り銭ございません ジャマイカジャマイカ

それそれそれそれ DAPPO!DAPPO!DAPPO! 

 

さあもう混乱だ。

本当に意味がわからない。というより意味があるのかもわからない。というかたぶん意味なんてない。いやもしかしたらこの「チャイナ」「サドンデス」「ジャマイカ」にはなんらかの関係性があるのかもしれない。いや絶対にない。「DAPPO!」は「脱法」でいいのか。それともただのイントネーションだけで選んでいるのか。

なんて意味について頭をフル回転して考えている間に曲はサビへと進んでいく。

 

気持ちいい ナニコレ 気持ちいい ナニコレ

気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい

ナニコレ ナニコレ キタ━━━━━━━━━!

 

もうお手上げである。

ここで、この曲に意味なんてないのだ、という事実を認めることになる。そして、ここでもうひとつの事実に気づく。

この曲、テルミンが全く使われていない。

公式サイトのプロフィールには、「ロシア系怪電波ユニット。メンバーは街角マチコ(テルミン奏者)、街角マチオ(フリースタイルボサノヴァ奏者)、川島さる太郎(さるのパペット)、SONE太郎(演出家)の4人。」とあるように、ユニットのなかには街角マチコというテルミン奏者がいたはずである。その証拠にこのアルバムに収録されている「恋愛契約書」や「すしてるみん」などの他の楽曲には街角マチコのテルミンが入っている。というかむしろザ・プーチンズがその他のキワモノバンドと一線を画している最大の要因はテルミンであったはずである。

それなのに、この曲、テルミンが全く使われていないのだ。

もう本当に理解不能である。ただ、その理解不能さがなぜだか心地いい。

考えることをやめる。そのことを現代に暮らす僕らがいかにおろそかにしてきたか。そのことをこの曲は教えてくれるのだ。

 

しかしそれだけで終わらないのがこの曲が名曲であると認めざるを得ない要因である。

ずっと意味がない、もしくは意味不明な歌詞を一方的に浴びせ続けられ、思考停止し、頭がからっぽになったところで、曲は急展開を見せる。そしてその展開に聴いている私たちはハッとさせられるのだ。

 

ああ 君のために 歌いたくない歌 歌うよ ハッハー

全然歌いたくないよ こんな歌詞なんかイヤだよ

すっぽんすっぽんすっぽん とか絶対歌いたくなかったよ 

 

そう。ずっと狂気に支配されていると思い込んでいたザ・プーチンズは(=街角マチオは)、あくまで冷静さを保っており、この曲が、そしてこの歌詞がおかしいということ自覚的だったのである。そして歌いたくないと思いながらも、この曲を聴いている「君」のために歌っているのである。別に頼んでいないのに。

ではこの曲で、ザ・プーチンズは何を伝えたかったのか。それはこのあとの歌詞で明らかになる。

 

でもね 見てごらん 恥を 恥を捨てることで

人は 人は楽に なれるのさ

でもね わかるだろ? 簡単なことだろ?

恥を捨てることで 人は前を向けるのさ 

 

現代社会で過ごす私たちを縛りつけるもののひとつ、「恥」から解放されることで、人は楽になれる。そして前を向けるということを、恥ずかしい格好で、恥ずかしい歌を歌うことで、ザ・プーチンズは伝えてくれているのだ。

ここで少しでも心を動かされてしまったらもう最後。ここから先の歌詞になぜか感動させられ、励まされてしまうことだろう。

 

ああ 君のために 踊りたくないダンス 踊るよ ハッハー

誰からどう見られてるかなんて気にするな

DAPPOとか言ってるやつだって この世にいていいんだぜ

 

生きたいように 生きろ 感じたいように 感じろ

泣きたいように泣け 言いたいことを言え

悪いことはするな 法の範囲で楽しめ

僕だけは君の味方さ だから最後までちゃんと歌うよ

DAPPO!DAPPO!DAPPO! DAPPO!

 

気持ちいい 正直 気持ちいい 正直

気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい

ナニコレ ナニコレ キタ━━━━━━━━━!

 

気持ちいい ナニコレ 気持ちいい ナニコレ

気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい 気持ちいい

ナニコレ ナニコレ キタ━━━━━━━━━!

 

3,2,1 Thank you!

 

なぜだろう。ラストサビの「気持ちいい」を聴いて、はじめのサビで聴いたときに胸のなかで沸き起こった感情とは、全くの感情が芽生えているのである。

そして頭のなかを掻き回された3分32秒(MVだと3分38秒)が終わったあとにポツリとこう呟くのだ。

「ナニコレ」、と。

(2022/04/10 ユニット名の変更をタイトルに反映いたしました。)

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秦基博『僕らをつなぐもの』

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歌い出しの一行でその曲の世界へと引き込む魔法のような曲が、数は少ないけれど、この世界にはある。

そしてそんな曲に出会えたとき、今まで生きていてよかった、と大げさじゃなく思えるほどの感動を覚えるのだ。

 

秦基博の「僕らをつなぐもの」は、そんな魔法のような曲のうちのひとつである。

彼が発表してきた数々の楽曲のなかで、「ひまわりの約束」や「アイ」、「鱗」などの誰もが知っている代表曲というわけではないが、私のなかでは確実に秦基博史上No.1の楽曲である。

まず前提として私は、情景描写が巧みというか、聴いていて情景が目に浮かぶような歌詞を持つ楽曲がたまらなく心を惹かれてしまう。

そんな私にとって「僕らをつなぐもの」の歌い出しの書き出しは珠玉の一行であると感じられる。

 

月灯りかと思ってみれば 変わる間際の黄色い信号

 

どうだろう。このフレーズを聴いて、以下のような情景が浮かんで来ないだろうか。

 彼女の家に向かっている夜、なんとなく俯きながら信号を待っていると、自分が黄色い明かりに照らされていることに気づく。月の明かりかと思い、顔を上げると、黄色を灯している信号機が目に入る。季節は冬だろうか、口からこぼれた息が白く浮かび、消えて行く。そして、信号機は黄色から赤へと変わり、歩行者用の信号が赤から青へと変わる。

 だが、ふと信号の明かりから、彼女とのこれまでの思い出が次々と蘇ってくる。そして、男は青にも関わらずなかなか足を前に踏み出すことができない。

そんな情景を私はこの書き出しの一行から想起させられる。もちろん秦基博がどんな思いを込めてこの楽曲を作ったかは知らない。もしかしたらどこかのインタビューを調べれば出てくるのかもしれないが、感じたことが全てだと思うため探すこともしていない。 

とにかくこの一行の楽曲へと引き込む力はすさまじい。

この一行を聴かせることが出来た時点で、秦基博の勝ちだ。

 

この曲の主人公は、彼女の家と向かっている男性である。そして変わる間際の信号をふと見つけたがきっかけで、彼女とのこれまでの些細な、しかしながら幸せな記憶が蘇ってくる。例えばそれは信号待ちの間の短いキスであったり、ポケットのなかで繋いだ指先の温もりであったり、男性のハナウタが彼女にうつったりといった、ありふれていながら唯一無二の記憶である。

しかしそんな甘い記憶をなぞっているにも関わらず、男性はどこか不安げである。

 

でも たぶん この街灯のように ただ

弱々しく 頼りない光の下に 僕らいて

 

そう。彼は、僕らをつないでいるもの、つまりこの恋が、太陽のような絶対的なものではなく、月のような全てを包み込むようなものでもなく、街灯のように弱々しく、頼りなく、ともすれば光が切れてしまうものだということに気づいているのである。

だから「ねぇ この先もずっと あの花を見れるよね?」と無邪気に尋ねる彼女に対してうなずくことしかできない。

 

そして、

僕らをつないでいるものは 不安を塞ぐように キスをするんだ

ねぇ 揺れる雲に月が隠れてしまう前に 帰ろう

今 君の家に向かう途中

 と光に照らされなくなることにどこか怯えながら、彼女の家に向かっているのだ。

 

書き出しの一文も秀逸だが、曲を通して描かれる恋の儚さを、しかも別れを持ち出さずに描ききった秦基博の作詞能力にはただただ脱帽する他ない。

間違いなく秦基博最高の一曲だと、私は思う。