結局、ポップカルチャー。

書きたいことを書きたくなったら書くブログ

映画『花束みたいな恋をした』考察、ふたりの5年とこれから

以下、ネタバレを含みます。

 

f:id:naka_tako:20210213142146j:plain

 

東京ラブストーリー』、『最高の離婚』、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』など、数々の名作を生み出してきた坂元裕二が脚本を手がけ、『カルテット』でもタッグを組んだ土井裕泰が監督を担当した『花束みたいな恋をした』。稀代のヒットメーカー・坂元裕二が手がける初のオリジナル脚本映画である今作は、2019年に制作が発表されて以来ファンからの数多くの期待が寄せられてきた。

 

youtu.be

 

興行収入ランキング初登場1位を獲得するなど大ヒットを記録しており、名実ともに2020年代の恋愛映画を代表する作品となるであろう今作。その魅力について、ある問いを通して考えていきたい。

 

物語は2020年のカフェでLとRで分け合って音楽を聴いているカップルを、たまたまそのカフェに居合わせた山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)がそれぞれ現在交際している恋人と共に見つめている場面で始まる。一見微笑ましいやりとりを繰り広げる彼らを見つめながら、麦と絹はそれぞれの恋人に対してイヤホンはLとRの両方で聴くことの重要性を説いていく。

 

麦「音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムだけ聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ」

 

絹「同じ曲聴いてるつもりだけど、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いてるの」

 

冒頭の場面だけで、麦と絹の物事の考え方や性格などが完全に一致していることがわかる。そして2020年に付き合っている恋人にはそれが全くと言っていいほど響いていない。ここからある問いが立ち上がる。

 

「なぜ麦と絹は別れ、2020年に別の恋人と付き合っているのか」、この問いについて考えていきたい。そのために、まずは麦と絹がどういった人物として描かれているのかについて確認する。

 

山音麦について 

山音麦はイラストレーターとして働くことを夢見ていて、その後同棲を機に一イラスト千円で描くという形で働き始める。しかし、その後受注金額は値崩れを起こし最終的には物流関係の企業に就職。絵を描くことや、ふたりの共通言語であるカルチャーから離れていく。

 

彼を表現する象徴的な要素として、ガスタンクが好きという点がある。なぜ彼は、日本各地に点在するガスタンクを撮影し、『ロードオブザリング 王の帰還』と同じ長さの大長編映画を自主制作してしまうほど、その存在に惹かれていたのか。

それはガスという危険物から、たとえ小型の飛行機がぶつかってきても壊れないほどの強度で身を挺して我々を守ってくれる、その絶対的な安心感に惹かれていたのではないだろうか。彼は、危険から身を守る絶対性に惹かれ、憧れていたのである。

だからこそ、絹が圧迫面接や実家のプレッシャーに苦しんでいた際にはその危険から絹を守るために同棲を提案したし、その同棲の持続が危ぶまれたタイミングで夢を諦めて就職したのである。彼が浮気を一度もしなかったのも、浮気が守るべき生活の危険分子だったからだろう。

なぜ彼が、あれほど好きだったはずのカルチャーから離れていくことも厭わずに仕事に没頭できたのかも、なぜ自己犠牲的な発想に囚われるようになったのかも、ふたりのなかでのガスタンク的な役割を担おうとしていたからだと言える。

 

八谷絹について

一方で、八谷絹は同棲を始めたのちに、アイスクリーム屋でのバイト、医療事務を経て、イベント会社へと就職していく。

 

彼女を表現する象徴的な要素に、ミイラが好きという点がある。なぜ彼女は上野博物館でのミイラ展に内心歓喜し、咽び泣くほどミイラに惹かれるのか。その理由に、彼女が「おわりの気配」に人一倍敏感である、という点が挙げられる。

彼女が熱心に読んでいたとされるブログ『恋愛生存率』の筆者・めいさんについて、このように語られている。

 

絹(M)「この人はわたしの話しかけてくれている、そう思える存在だった。彼女の書くテーマはいつも同じだった。はじまりはおわりのはじまり」

 

付き合いたてで行った静岡旅行の映像とともに、このモノローグは語られる。幸せの絶頂であるはずのときでさえも、この恋愛にも「おわり」があるということを頭のどこかで理解し、静かに恐れている。常に「おわりの気配」を感じている絹だからこそ、カラオケでは<“クロノスタシス”って知ってる? / 知らないときみが言う / 時計の針が止まって見える現象のことだよ>(きのこ帝国“クロノスタシス”)と歌ったし、花の名前を麦に聞かれた時もその名を伝えなかったし、電車のなかで「絶対に別れないって自信ないの?」と聞かれた際も答えを濁していたのである。

 

そんな冷静さを兼ね備えた絹だからこそ、死という生きとし生けるものに平等に訪れるはずの「おわり」を超越すべく、「永遠の命」を手に入れるために作られたミイラに惹かれるのだ。

 

ふたりはなぜ別れたのか

そんなふたりは、終電を逃した明大前で出会い、同じく終電を逃した男女ともに行ったカフェで押井守を見かけたことがきっかけで距離が縮まり、そして恋に落ちる。麦の本棚の並びを見て「ほぼうちの本棚じゃん」と絹がこぼしたほど、出会ったときにお互い白のジャックパーセルを履いていたほど、ミイラ展に行った際に示し合わせていたのかと疑いたくなるほど似た服装をしていたほど、彼らの趣味嗜好は通じ合っていた。その趣味嗜好がアイデンティティを形成する大きな要素であると自認している、というところも含めて似通っていたふたりはなぜ別れることになったのか。

 

思えば、ふたりの恋愛は「分かち合う」ことで成り立っていた。LとRでイヤホンを分け合ってはAwesome City Clubを聴き、『宝石の国』をふたりで寝転びながら読み、焼きそばパンを分け合って食べる。「おわり」に敏感なはずの絹が、付き合ってすぐの同棲に抵抗を覚える描写がなかったことも、ふたりのなかで「分かち合う」ことが当たり前になっていたからこそ、生活を分かち合うことにも抵抗がなかったと言える。

 

そんなふたりの別れのきっかけは、社会人として働き始めたことがターニングポイントとして描かれている。社会からその身を、カルチャーを分かち合う生活を守るために同棲を始めたのだが、同棲を続けるために社会に出ることになった。その因果が逆転したことで、麦はカルチャーから離れ、カルチャーを共有する喜びを重要視している絹とのすれ違いが生じるようになる。そして気がつけばLとRを分け合ってひとつの音楽を聴こうとしていたふたりは、LとRその両極端まで心が離れていってしまっていた。

 

そして、会話も喧嘩もなくなった2019年、友人の結婚式の帰り、交際を始めたファミレスでふたりは別れ話を始める。しかし、麦はそれを途中で「絹ちゃん、俺、別れたくない」と遮り、結婚しようと口にするのだ(蛇足だが、長台詞は坂元裕二の真骨頂のひとつだと思う。以下の場面も『最高の離婚』第9話屈指の名場面である「キャンプ、 行けなくてごめんなさい」で締められる光生の長台詞を想起させられた)。

 

麦「ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だよ。そんなの求めてたら幸せになれない。喧嘩ばっかりしてたのは恋愛感情が邪魔してたからでしょ。今家族になったら、俺と絹ちゃん、上手くいくと思う。子供作ってさ、パパって呼んで。ママって呼んで。俺、想像出来るもん。三人とか四人で手を繋いで多摩川歩こうよ。ベビーカー押して高島屋行こうよ。ワンボックス買って、キャンプ行って、ディズニーランド行って。時間かけてさ、長い時間一緒に生きて。あの二人も色々あったけど、今は仲のいい夫婦になったね。なんか空気みたいな存在になったねって。そういう二人になろ。結婚しよ。幸せになろ」

 

「恋の死」を別れではなく、結婚という形で受け入れてふたりで生活していくことを提案した麦に対して、絹も一度は「そうかもしれない」と受け入れようとする。

 

しかし、そこで麦と絹が出会った頃の年齢と思わしき男女、水埜亘(細田佳央太)と羽田凛(清原果耶)がファミレスにやってくる。21歳の麦と絹が座った座席に座ったふたりは、羊文学のライブ帰りに偶然出会ったようで、長谷川白紙や崎山蒼志、BAYCAMPの話をして、お互いが持っている文庫本を見せ合っている。麦と絹にはない、輝きや尊さをふたりは持っていた。そしてその輝きは、かつてのふたりも持ち、そして失っていったものだった。

あの頃には戻れない。そして「分かち合う」恋愛で結ばれ、分かち合えなくなった今のふたりにこの先はない。枯れた花束は捨てるしかない。そのことをまざまざと見せつけられたふたりは、別れを決意するのだ。

 

なぜふたりは新たな恋愛ができているのか

ここまでなぜふたりが別れることになったのかについて確認した。次に、なぜ5年もの月日を注いだ大恋愛が終わった翌年に、新たな恋愛ができているのか。そのことについて考えたい。

 

確かに2020年、彼らは新たな恋愛をしている。だが、それぞれの恋人には冒頭のイヤホンの話は全くと言っていいほど響かず、理解されない。それでも恋人同士になれた理由について、彼らは自分の口で冒頭に語っているのである。

 

麦「スマホはひとり一個ずつ持ってるじゃない」

絹「一個ずつ付けて、同時に再生ボタン押せばいい」

知輝(絹の現在の恋人)「ひとつのものを二人で分けるからいいんじゃないの?」

絹「分けちゃダメなんだって、恋愛は」

麦「一個ずつあるの。あの子たちそれをわかってないな。教えてあげようかな」

 

「分かち合う」恋愛を通して、ふたりは「恋愛は一つずつ持つもので、分けるものではない」と思うようになったのだ。その結果、カルチャーや思想を共有できなくても、付き合っていけるようになったのである。その証拠に、ふたりはイヤホンの話が理解されなくても気にするそぶりは見せないし、生活を分かち合う同棲ではなく一人暮らしをしているのだ(とはいえ、ふたりが2020年に付き合っている恋人がひどく退屈そうな人に映るところは、この映画の意地悪な部分であり、良心であるとも言える)。

 

だからといって、ふたりが過ごした五年が間違いだったわけではない。愛し愛されて生きた輝かしい日々はGoogleMapに映り込んだように確かにそこにあって、たとえGoogleMapが更新されてふたりがストリートビューからいなくなっても、ふたりのなかに、そして我々の心のなかに生き続けるのだ。

 

P.S.

映画館で鑑賞した直後に唯一ひっかかっていた点に、「ふたり、天竺鼠の単独行こうとしてた割にその後お笑い好きな描写なくない?」という疑問があったのだが、ふたりが喧嘩していた際に麦が怒り混じりに「じゃあ結婚しようよ」と口にした場面で

 

絹「それってプロポーズ?」

麦「……」

絹「今、プロポーズしてくれたの?」

麦「……」

絹「思ってたのと違ってたな」

 

というやりとりがある。この「思ってたのと違ってたな」は、『M-1グランプリ2008』で敗者復活から上がってきたオードリーに敗れた笑い飯・西田が残した名言「思てたんと違う!」を想起させられる。このシリアスな場面でも『M-1』を下敷きにした言葉が出てくるのだとしたら、やはりふたりはお笑いのことも愛していたのだと思う。